留学ジャーナルから出発した著名人に体験談をインタビュー

坪井直樹さん

世界を肌で体験したことが、
今の仕事にも生きています

坪井直樹さん(アナウンサー)

大学1年の夏休み、友達と二人で1ヵ月のヨーロッパ周遊の旅に出ました。初の海外は面白くて刺激的で楽しかったんですが、英語を話せない自分が想像以上にショックで、これはまずいと。旅行から帰った次の日に、大学を休学して留学しようと決めました。

いろいろな国の人が集まるヨーロッパを体感したいと、選んだのはイギリスです。3ヵ月間ロンドンの語学学校で英語を学んで、秋から3ヵ月は大学の先生の紹介でスコットランドのスターリング大学で日本文化論を聴講しました。語学学校のクラスには日本、韓国、スペイン、スイス、ドイツ、イタリア、ポルトガル…と世界各国の学生がいて、まるで小さな地球。しかも皆、その国の個性を体現していて、ドイツ人は絶対時間に遅れない、イタリア人はスタイリッシュで料理が上手、ブラジル人は陽気で音楽があると踊りだす…。その時はマルチカルチャーな環境が面白いと思っていただけだったんですが、「この国の人にはこんな風に接すれば、こう言えば心を開いてくれる」というのがそれとなく身につきました。今も外国人と接する時に役立っています。

実は僕が留学した1990年は世界が大きく動いていた時期でした。前年、東西冷戦が終結し、ベルリンの壁が崩壊、90年にはイラクのクウェート侵攻、そして翌年1月に湾岸戦争ぼっ発。他にもイタリアワールドカップの年で、本場イングランドの盛り上がりを体験しました。この時期の世界の動きを間近で体感できたことはとてもよかったと思います。

アナウンサーという仕事は物事を大きな視野で見る必要があり、また大きな視野で見ている専門家の方たちと話す機会も多いのですが、自分がヨーロッパで見てきたこと、知ったことはすごく武器になる。あの時代に留学して本当によかったと思います。

プロフィール 坪井直樹さん テレビ朝日アナウンサー。1990年、大学時代に休学留学でイギリスのInternational House, London、University of Stirlingに計7ヵ月間留学。現在は朝の情報番組「グッド!モーニング」メインキャスターを務める。

佐藤賢太郎さん

表現活動の先には、アメリカがあった

佐藤賢太郎さん(音楽家)

現在は作曲家・指揮者としての活動を中心としていますが、米国留学当初は映画・映画製作を専攻していました。高校卒業後の進学先として留学を選んだのは、高校のときから本格的に取り組んだ演技・演劇・脚本制作といった活動からの自然な流れであり、米国ロサンゼルスを留学先として選んだのも、映画の本場ハリウッドで勉強することを希望したからです。海外挑戦の機会をくれた両親には感謝の言葉もありません。

さて、専攻が映画から、音楽・作曲、大学院修士課程では指揮専攻と音楽家としての人生に変化していった理由を書くには文字数が足りませんが、私の米国留学は、出会い、機会、経験といった様々な面において非常に恵まれていたと感じます。そして、仕事に直結している技術や知識や英語力といったことを得たこととは別に、様々なバックグラウンドを持った人々が集まるからこそ大切にされる表現力、そして米国スタイルの一つである「Do it yourself. (自分でやれ)」を体現している人々を身近に感じ、ひらめきを伴った努力で目標に向かうことの重要性を実感することができたことは、私の留学時代の得た大きな財産です。

プロフィール 佐藤賢太郎さん 音楽家。高校卒業後の2000年に米国ロサンゼルスに渡り、Santa Monica College、California State University, Northridgeの学部~大学院で学ぶ。芸術、ゲーム・映像、ポピュラー音楽のジャンルを越え作編曲、作詞、指揮などグローバルに活躍中。

菊間千乃さん

最初の留学をバネに。二度目の留学の成果

菊間千乃さん(弁護士)

大学時代、今まで出会ったことのないような人たちとコミュニケーションをとっていくことを4年間の自分の課題にしました。アナウンサーになるために自分が考えた手法です。会った瞬間から「この人には話したいな」と思ってもらえるような人になりたい。「早稲田大学の菊間」ではなく「菊間千乃」という個で勝負するために、何の先入観にも捕われない場所で、いろんな人に揉まれたいと思い、留学を考えました。大学3年生の夏でした。

それまで、人とすぐ仲良くなることが得意だと思っていたんですが、留学先では全くダメ。英語を読んだり書いたりできても、喋れない。口数が少なくなってしまい、人生で初めて“大人しい”と言われました。それまで輪の中心で仲間を盛り上げる性格だったはずなのに。自分のアイデンティティを全否定されたような気がして、1ヵ月半、本当に辛かったです。ただこの経験は、「言葉」というものの自己表現力に占める割合の大きさを再認識するきっかけになりました。それ以来、自分が発する「言葉」に丁寧に向き合うようになった気がします。そういった姿勢は、アナウンサーの仕事にも活きたと思います。

そして20年後。弁護士として、ダラスで行われる6週間のサマープログラムに参加する機会を頂きました。世界28ヵ国から、英語を母国語としない弁護士が70人集まって、英米法を学ぶというプログラムです。英語力自体は落ちているし、法律英語ですから内容も難しい。でも20年前の反省があったので、今回はとにかく喋りまくり。頭に英語が2~3語浮かんだら、最後まで文章が浮かばなくても、とにかく喋り出す。皆英語が母国語ではないですから、少しくらい文法が間違っていても、一生懸命話そうとする人の言葉には、耳を傾けてくれます。こうして世界中の仲間とコミュニケーションをとれたことが2度目の留学の最大の成果です。授業の後、皆でBBQをしたり、飲みに行ったり、一晩中踊り明かしたり。第2の青春でしたね、本当に楽しかったです。今でも当時の仲間とはSNSで繋がっていますし、日本に来る時は必ず連絡が来ます。毎月のように誰かを歓待している感じ。留学先では自分が日本代表みたいなものですから、皆と友好的な関係をずっと続けていくことで、友人が日本に興味を持って、もっと好きになってくれたら、嬉しいなと思います。

プロフィール 菊間千乃さん 弁護士。大学時代の1993年夏、イギリスのStudio Cambridgeに約1ヵ月半短期留学。フジテレビアナウンサーとして活躍後、弁護士に転身。

石隈利紀さん

アメリカ留学で得た、ダイバーシティ共生の態度

石隈利紀さん(東京成徳大学教授・筑波大学特命教授)

私が留学を決意したのは、1981年夏、「英語を海外で学ぼう」という書籍を読んだことがきっかけでした。当時私は31才、山口県の実家で会社に勤めながら、家庭教師や英語教室の教師をしていました。留学カウンセラーの方と相談して、アラバマ州のガズデンという町にある英語学校に行くことを決めました。そこからスタートしてアラバマ大学に入学し、大学院に進み、現地の小学校や大学で仕事をし、1982年から1990年までを過ごすことになりました。この間、私を支えたのは、誰も知らない国で暮らす「開放感」とわざわざアメリカまで勉強に来たという「心の張り」です。

20代使わずに残していた「向学心の薪」を燃やしながらの、足かけ9年間の武者修行です。アメリカで、多様な人と出会いました。様々な国にルーツをもつ白人、そしてヒスパニック系、アフリカ系、アメリカ・インディアン。彼らと出会うことで、自分がアジア系であり、日本人と気づきました。多様な人との関わりで、自分の考え方・文化と他者の考え方・文化を意識し、他者に敬意を払うことが自然にできるようになりました。多文化でのつきあいは、気を遣いますし、よく理解できずに不安になりますが、新鮮で刺激的で面白いものです。今組織の管理職として仕事をしていますが、日本にいても多様な価値観と出会うことがあります、その時は”mysterious!” あるいは”interesting!”ととらえます。「変わった人、つきあえない人」ではないのです。多様な人と生きる時代、アメリカ留学で得たダイバーシティ共生の態度は私の強みかもしれません。

プロフィール 石隈利紀さん 東京成徳大学教授・筑波大学特命教授。1980~1989年の約9年間、語学留学から始め、U of Montevalloの学部、U of Alabamaの大学院を卒業、Ph.D取得。帰国後は筑波大学で教鞭を執る。理事・副学長を経て、この春から特命教授に。学校心理学の第一人者。

武田久美子さん

真剣だった、“大人の留学”

武田久美子さん(タレント)

留学したのは確か29歳。30歳を目前に、やり残したことがないかと自問した時に“「英会話」が残っている”と。仕事をしながらでは、なかなか勉強の時間が作れない、それで3ヵ月間仕事を休み、集中して学ぶことにしたんです。

留学先に選んだのはUCアーバインの英語コース。LAに住む知人の勧めです。本気で英語を学びたいなら環境的にお勧めだと。知り合いもいて、行先も決まって、自分で入学手続きを進めていたのですが、予想外に時間がかかりました。お休みの期間は決まってるし、間に合わなくなりそうで、留学ジャーナルに相談したんです。

留学生活は、学校に行くのがメインの生活です。朝5時頃起きて、車で学校に行って、放課後は宿題して、友達と会って。大学のキャンパスで行われるコースだったので、まさにキャンパスライフ。青春の一ページのような感じです。滞在はホームステイ。13歳の娘はバリバリのティーンエイジャーで、私の持ち物を勝手に触ったり。でも、今となっては楽しい思い出です。

仕事を休むというリスクをとって、留学費用も自分持ち。大人になってからの留学は真剣度が違います。できるだけ英語に触れて、吸収したい気持ちがとても強かった。おかげで他国からの留学生の友達がたくさんできました。

1ヵ月の留学はその後につながるきっかけを作ったような感じです。それまで目に入らなかった英語の参考書を手にするようになり、それからは独学です。あの留学をやっていなかったら、英語を勉強したり、外国に住むこともなかったかもしれません。ある意味で人生の転機でしたね。

プロフィール 武田久美子さん タレント。1997年春、女優としての活動の合間を縫って約1ヵ月間、UC Irvine付属集中英語コースに短期留学。現在、アメリカ・サンディエゴ在住。日本とアメリカを行き来しながら活動中。

植田稔也さん

留学から現在までを振り返って

植田稔也さん(デンバー大学 物理天文学科准教授)

20数年前、雑誌留学ジャーナルで記事にしていただいたことがあります。当時はテキサス大学オースティン校に学部留学、物理と数学のダブルメジャーを話題にしました。テキサス大学では最終的にトリプルメジャーで天文の学士号も取り、その後、イリノイ大学アーバナ・シャンペイン校で天文学のPh.D.を取得しました。それからベルギー・ブリュッセルの王立天文台でポスドク、カリフォルニアのNASAエイムズリサーチセンターでフェローとして研究を続けた後、デンバー大学へ。理数学部物理・天文学科でテニュアトラックを経て、テニュア*を取得、現在に至ります。

こうして書くと数行ですが、改めて振り返ると、まあよく頑張ってきたなあと思います。研究職という特殊な職種志望だったので、学部留学という未知の世界に飛び込んでからこのかた、これまで生き残るのにそれこそ無我夢中でやってきました。その過程で、初志貫徹するための意志というか根性のようなものは、非常に鍛えられたのではないかと思います。立場が変わるにつれ責任も増え、苦労の質も変わってきてはいますが、これまでいつも辛いだけだったかといえばそうではなく、自分の目指す道を迷わず突き進めるのは、やはり楽しいことです。

諸連絡は国際郵便でという20数年前に比べれば、メールもあればリアルタイムチャットもできる時代。留学はもう特別なものでは無いでしょう。その分、選択肢が増えたぐらいに思って、どんどん打って出ていってもらいたいです。挑戦せずに後で後悔する方がもったいないと思います。
*テニュア(Tenure)=研究者としての終身在職権。

プロフィール 植田稔也さん デンバー大学物理天文学科准教授。天文学者。1991年、高校卒業後の進路にアメリカを選び渡米。大学、大学院と進学し、天文学博士号取得後、そのまま研究の道へ。2年間のヨーロッパ研究員生活を挟んで、アメリカ在住歴は通算23年となる。

国広富之さん

“人生の宝物”の3ヵ月。

国広富之さん(俳優)

大学を卒業後、役者の道に進み、ドラマ、映画と矢のように時間が過ぎ、気がつけば7年め。「どこかで休みたい」と、無理をお願いして3ヵ月間の休暇をもらい、留学することにしました。大学時代に1ヵ月、ハワイに短期留学した経験があったので、留学なら長く安く海外に滞在できると考えたんです。

目的はリラックス&リフレッシュすることでした。海の近くでのんびりできるところを探し、選んだのはフロリダ。入国したLAで小さい日本車を購入して、5日間かけてアメリカ大陸を横断しました。ところが、到着していきなりハプニング。寮に荷物を置き、食事に行って戻ったら、机の引き出しに入れておいた現金が無い。盗まれてしまったんです。警察を呼んでいろいろ聞かれて。波乱の幕開けでした。

でも、留学生活始まってからは毎日楽しかったですね。授業が終わったらジムに行って、カフェテリアで友達とおしゃべりして。学生時代に戻った感じです。週末は車で遠出。フロリダ半島南端のセブンマイルブリッジには2度ドライブしました。ダイビングにも何度か行き、ボートが海上でエンジン停止して動けなくなるアクシデントに遭遇したことも。

一番の思い出はキャンパスからもほど近いセントピートビーチで見た夕焼けです。空と海と太陽と、少しずつ色を変えながらすべてが黄金色に染まった瞬間。私は夕焼けを見るのが好きなんですが、いまだにあれを超える夕焼けには出会っていません。 のんびり過ごしつつも様々な体験が詰め込まれた時間。人生の宝物のひとつです。

プロフィール 国広富之さん 俳優。テレビドラマで活躍し、人気絶頂期の1983年、アメリカ・フロリダのEckerd College(ELS)に約3ヵ月間留学。その後もテレビ、映画、舞台と幅広く活躍。独学で始めた絵画も好評で、各地で個展を開催。2016年は映画「テラフォーマーズ」「嫌な 女」他に出演。

福島敦子さん

多様性を肌で感じたボストンの2ヵ月

福島敦子さん(ジャーナリスト)

NHKのキャスターの仕事を5年間担当し、少しリフレッシュしたいと考えた時に、海外でそれまでとは違う環境で生活してみようと、短期留学しました。選んだのはアメリカのボストン大学の英語コースです。

ちょうど夏休みの時期でもあり、まず印象的だったのは本当にいろいろな国の方が来ていたこと。授業では積極的に発言を求められるのですが、中国の人やヨーロッパの人は最初から積極的に自分の考えを言う。私たち日本人は徐々に意見を言えるようになりましたが、アメリカで生きていくには、自分の考えを伝えることが必要なのだと改めて感じました。

留学で思い出深いのは大学の寮での生活です。メキシコ人、韓国人との3人部屋だったのですが、メキシコ人の女性は典型的なラテン系で賑やか。韓国の女性はとても思いやりがある人。部屋でおしゃべりをしたり、3人で旅行でニューヨークにも行きました。それまでと全く異なる環境に身を置きたいと考えていた私にとって、他国の人と一緒に暮らすことは、いろんな刺激が常にありました。バックグラウンドが全然違う人たちと接する中で、多様なモノの見方に触れることはとても大事だと感じました。それが自分の視野を広げ、感性を磨いてくれたように思います。

今、仕事で経営者の方と対談したり、企業の取材をすることが多いのですが、組織の活力という点で、多様性=ダイバーシティが重要だと盛んに言われる時代になっています。画一的な集団ではなく、いろいろな経験、知見を持った人達が意見を出し合うことで、良い道を導き出していくことができると。それは個人の生き方も同じだと思うんです。自分自身を豊かにしていくためには、多様な友人のネットワークがあったほうが良いと思いますし、仕事関係でもいろんな人とのつながりが大事。ボストンの生活でダイバーシティの重要性を感じたことは貴重な経験だったと思います。

プロフィール 福島敦子さん ジャーナリスト。NHKでキャスターを務めた後、1993年夏にU.of Boston付属集中英語コースに約2ヵ月間留学。その後も現在に至るまでキャスターを始め、講演やフォーラムなど多方面で活躍。上場企業の社外取締役や経営アドバイザーも務める。

迫俊亮さん

偏差値38の高校生だった私が、
留学して社長になるまでのこと

迫俊亮さん(ミスターミニット社長)

高校時代は偏差値38の落ちこぼれ。留学して新しい世界で変わりたいと、卒業後の進路にアメリカの大学を選びました。そこからがむしゃらに猛勉強。それまで勉強していなかった自分は人の数倍の勉強量が必要でした。アメリカで2年制大学に入ってからも半年間は1日3時間睡眠で勉強、UCLAに編入しました。

UCLAで学んだのは社会学です。当時描いていた将来像は、グローバルに働くことと、「社会を変えたい」ということ。社会学者になろうと思っていました。しかし、世の中を変えられるのはビジネスだと考えるようになり、ビジネスの世界に関心が向き始めました。就職先に選んだのは三菱商事です。

6月にUCLAを卒業したあと、翌年4月の入社までの時間を使ってインターンをすることにしました。インターン先は「マザーハウス」。アジアの途上国の素材を使ったファッションブランドで、当時は創成期でした。創業者の情熱、スピード感のある仕事は刺激に溢れていた。商社に就職した半年後、マザーハウスに社員として戻ることになります。自身の成長のため、そしてアジアの途上国に安定した雇用を供給することで「社会を良くしたい」という理想を描きました。

私はマザーハウスを5年で世界に通用するブランドに成長させる目標を立てました。日本での事業を軌道に乗せ、台湾でビジネスを立ち上げ。成果はありました。でも目標には至らなかった。自分のやり方が適切ではなかったと思いました。プロの経営者としてのキャリアを積もう。それができる場所を求め、マザーハウスを離れました。

そしてファンドを通じてアジア6ヵ国・約600店舗でミスターミニットを展開する現在の会社に転職、海外事業の立て直しを任されることになりました。そしてその1年4ヵ月後、29歳の時に社長に就任、今はこの会社を良くすることに全力を注いでいます。

ビジネスで社会を変える。留学時代から続く目標。これからもぶれずに進んでいきます。

プロフィール 迫俊亮さん ミニット・アジア・パシフィック株式会社代表取締役社長。高校卒業後、2003~2007年、アメリカに留学。UCLA社会学部卒。三菱商事(株)、(株)マザーハウスを経て。2013年7月、ミニット・アジア・パシフィック株式会社入社。2014年、29歳の若さで社長に就任。