2021年、留学ジャーナル社は創業50周年。スローガンである“世界は思っているより「カラフル」。”をテーマに、留学が人生のターニングポイントとなった人をインタビュー。韓国語の翻訳家/ライターとして活躍する桑畑優香さんの留学の色は「パープル」。多様性に富んだカラフルな世界で、自分の色を見つけるまでのストーリーとは?

イメージとは違うリアルなアメリカの姿が見えた

 「昔から留学がしたいという気持ちはあったんです。大学では英文学科だったこともあり、英語力を高めたいなと。気軽な気持ちでした」
元号が平成となった翌年の1990年、桑畑さんは大学を休学して、アメリカ・イリノイ州のオーガスタ名大学で1年間を過ごした。
「一生に一回の留学だろうと思ってなるべく日本人が少ない地域を探して学校を選びました。インターネットもSNSも普及していない当時、アメリカのイメージはロサンゼルスかニューヨーク。行ってみたらイリノイは私の思っていたアメリカではなかったんです。さらに留学中一番仲良しになったのはBlackの友達たち。彼らを知ることで世界の格差問題や経済援助に関心を持ち、国際機関や報道関係で将来働きたいと思うようになりました」
結局、これは“一生に一回の留学”とはならなかった。

 「新聞で読む日米関係と私がイリノイで見た日米関係には大きな開きがあると感じ、報道の仕事に興味を持ちました。それで新聞社に就職。でも、配属されたのは希望していた記者職でなく、営業職でした。記事を書けないことにストレスを感じる中、幸運にも奨学金を受給できることに。1年半で退職して再び留学しました。」

その後の人生を大きく変えた未知の隣国との出合い

 二度目の留学先はワシントンD.C.にあるジョージ・ワシントン大学。修士課程で国際関係学を専攻した。
「アメリカの政治の中枢都市にありますから、モチベーションの高い人ばかりで、いろんな国からの留学がいました。外交関係の人も多く、身近に政治を感じられる環境でした」
実際、桑畑さんが留学していた90年代前後はベルリンの壁崩壊に象徴される東西ドイツの統一、ナミビアの独立、湾岸戦争にソビエト連邦の解体、冷戦終結……現代史で例を見ないほどに国際情勢がダイナミックに変わっていった時代だった。
「今よりも政治が人々の日常に深く関わっている空気感がありました。大きな時代の流れの中でさまざまな国籍やバックグラウンドの人と出会うことで、こういう出来事が自分の身近なことにリンクしていました」
人生というのは時に思わぬ方向へとかじを切る。このワシントンD.C.時代に桑畑さんは韓国と出合う。
「韓国人の留学生が多い大学で、彼らは日本のことをよく知っていたんです。まだ韓国で日本の大衆文化は開放される前だったのに、日本のドラマや芸能人のゴシップネタまで。日本のトレンディドラマを模した韓国ドラマを一緒に見たりもしました。でも文化は好きだけど、政治的には日本は嫌いだってきっぱり言うんです。それが不思議だなあって。隣の国なのに、私は韓国に対するイメージしかなかった。それで朝鮮半島の政治学を履修したんです。」
ジョージ・ワシントン大学は東アジア研究にも力を入れている大学。核査察や朝鮮半島の南北問題もこの時に知った。学問として学ぶ韓国と、友人から知る韓国。さまざまな面を知るにつけ、どんどん興味を引かれていった。

 「当時日本で伝わっていた韓国像といえば87年の民主化運動で催涙弾を投げている映像くらいでした。海外渡航が自由化されたのは89年で、大学にいた韓国人留学生の大半はエリート。そういう特権階級から語られるのとは違う韓国もあるはず。彼らの言葉をもっと知りたい、自分の目で見てみたいと思うようになりました」
こうして留学生がさらに留学することになる。桑畑さんはジョージ・ワシントン大学の交換留学制度を利用して韓国の学校で学ぶことに。その後、アメリカでの留学生活に戻ることはなかった。
「当時はとにかく興味の赴くまま。語学学校のあとは韓国政府奨学生として、韓国の大学の修士課程で政治学を学びました。もったいない、アメリカの大学院も卒業すればよかったのにと言われましたが、アメリカの政治を専門とする人は他にもいましたから。それに、韓国は今後、日本との関わりがより深くなる国だと感じたんです。ニッチな専門性を身に付けようと」

人生の転機から思ってもみない色が生まれた

 韓国で日本文化が開放されたのは98年、韓流ブームの火付け役となったドラマ『冬のソナタ』の日本初放送は2003年。桑畑さんが大学院に在籍していた当時は、国際社会で韓国が存在感を示す前だ。先達のいない世界に飛び込んでいくモチベーションはなんだったのだろう。
「やっぱり根底には“書きたい”という気持ちが一貫してありました。でも何者でもないまま20代後半になって、誰も行かないような国に来てしまって、この先どうするんだろうという焦りも同時に感じていました」
くしくも桑畑さんが大学院を卒業する頃、サッカーワールドカップの日韓共催が決定し、日本と縁の深い故金大中が大統領に就任。日韓関係がガラリと様変わりした節目となり、桑畑さんはその専門性を十二分に生かすチャンスを手にした。報道から韓国カルチャーまで幅広くカバーするライター・翻訳家として現在も韓国と深い付き合いを続けている。
アメリカから始まった桑畑さんの留学は何色だったのだろう。
「パープル、かな。私にとってアメリカのイメージカラーは青で、韓国は赤。最初は青い所を目指したのに、いつの間にか赤い所に行ってて、最後は混ざって紫になったという感じです。翻訳を手掛けたBTS(韓国の音楽グループ)のイメージにもちなんでいます(笑)。これから留学に行く人には予定調和なものだけでなく、私のように予想外の展開も楽しんでほしいなって思います。」
留学中の思いがけない出合いがターニングポイントとなり、桑畑さんの現在をかたちづくっている。

【プロフィール】
プロフィール/くわはた・ゆか。1968年生まれ。大学時代、1年間休学しアメリカへ留学。その後、新聞社を退職して、ワシントンD.C.の大学院で国際政治学を学ぶ。そのさなか韓国の政治や文化に興味を持つようになり韓国へ。現在は、翻訳家/ライターとして活動し、書籍などの翻訳を多数手掛ける。

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