フランスの自宅から車で妻と出勤。 スイス国境を越え25分で事務所に到着 |
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カフェテリアで同僚と談笑 | |
ユニットの同僚との週ミーティング | |
同僚たちとランチ。近くの日本食材屋の弁当を買い、レマン湖の畔で食べることも | |
ウガンダの環境エネルギーに関するワークショップについて上司やウガンダ事務所と電話会議 | |
メールチェック。UNHCRのウェブサイトのニュースチェック | |
ウガンダのワークショップ参加者の招待状作成 | |
事務所近くのバスケットボールコートで同僚たちとバスケ | |
妻と一緒に車で帰宅 |
グローバルに社会貢献ができる国際機関で働くには、どのようなステップが必要なのだろう。
いま活躍する日本人職員に、その道のりを聞いた
フランスの自宅から車で妻と出勤。 スイス国境を越え25分で事務所に到着 |
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カフェテリアで同僚と談笑 | |
ユニットの同僚との週ミーティング | |
同僚たちとランチ。近くの日本食材屋の弁当を買い、レマン湖の畔で食べることも | |
ウガンダの環境エネルギーに関するワークショップについて上司やウガンダ事務所と電話会議 | |
メールチェック。UNHCRのウェブサイトのニュースチェック | |
ウガンダのワークショップ参加者の招待状作成 | |
事務所近くのバスケットボールコートで同僚たちとバスケ | |
妻と一緒に車で帰宅 |
難民の支援は学生時代からかかわってきたテーマだ。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のジュネーブ本部で、環境エネルギーを統括する部署に勤務する黒岩揺光さんはこう話す。
「本当は現場に行きたいんです」
黒岩さんの職務は難民キャンプで料理に使う燃料などを手配すること。食糧が配られてもガスがなくて調理ができず、長時間歩いて薪を探しに行き、治安の不安定な場所で危険な目に合うこともある。そうした中で、森林を再生したり、太陽光発電で料理ができるアイテムを提供したりする。
「多国籍なチームでプロジェクトを運営する難しさがありますが、アジア、欧米、アフリカなどで過ごした経験が役に立っています」
もし多国籍企業なら、経営陣のコミュニケーションスタイルが規準になることも多い。ところが、黒岩さんの職場は上司がエチオピア人で、同僚がトリニダード・トバコ人、アイルランド人、カナダ人、アメリカ人というふうに多種多様な文化背景を持つ人が集まっている。
「面子を大切にする、あるいはストレートにものを言うなど、コミュニケーションスタイルの違いをふまえたうえで、プロジェクトを円滑に進めるためにコミュニケーションを積み上げる必要があります」
2002年12月米国マイアミ大学国際関係学部卒
2005年8月オランダ・ユトレヒト大学院「移民・民族関
係・多文化主義」修士コース修了
2006年4月毎日新聞社入社(奈良支局,尾道支局)
2010年3月外務省平和構築人材育成事業の研修生
としてケニアのダダーブ難民キャンプの
国連難民高等弁務官事務所へUNVと
して派遣
2010年10月著書『国境に宿る魂』(世織書房)刊行
2011年5月キャンプで米NGO「International
Lifeline Fund」 のプログラム・マネジ
ャーを努める
2013年1月UNHCR職員の妻と一緒に暮らすため、
仕事を辞め主夫になる
2013年3月著書『僕は七輪でみんなをハッピーにし
たい』(U- CAN)刊行
2014年3月UNHCR本部で
環境エネルギーユニットで
アソシエートプログラム
オフィサーに着任
新潟で生まれ育った黒岩さんが留学を目的に渡米したのは15歳のとき。
「7人兄弟の末っ子で、兄たちがアメリカで短期留学していたのに刺激を受けた。負けたくない思いもあり、アメリカの高校を卒業後、大学に進みました」
大学では「人と違うことをしたい」という思いが強く、冬休みにスキー旅行している同級生も多い中、旧ユーゴスラビアに飛んだ。紛争が起こった地域の人々の暮らしを見たかったからだ。サラエボで現地の人と出会って難民の居住地を案内してもらい、通訳をしてもらって話を聞いた。
「目の前で兄弟を殺されたり、自分の国に帰れなかったり、苦しい状況の難民の人たちを目の当たりにして、この人たちのために何かをしたいという思いや正義感が沸いてきた。自分は選択して渡米したけれど、それでも大変な思いをしたこともあり、身に染みたのかもしれません」
早速、サラエボのUNHCR事務所を訪ね、ボランティアをしたいと申し出た。NGOの団体を紹介され、子どもたちのレクリエーション関連の活動に2~3週間携わった。
難民の支援にどうかかわっていくか。研究者になることも考え、大学院で移民の研究もした。しかし、調査や出版には時間がかかる。そこで、卒業後は日本の新聞社で記者として就職し、見て感じたことを発信するためのトレーニングを積んだ。
それでも難民キャンプの現場から発信するという役目はすぐにまわってはこない。そこで、ケニアの難民キャンプで仕事をするプログラムに応募し、採用され、アフリカに飛んだ。
ケニアでは2年と8ヵ月の間、工場の運営を任された。難民の人たちの就労支援を通じて、コミュニティの形成を促していくのが目的だ。
「難民問題というと、短期で食糧や薬の緊急援助がニュースになりますが、長期での課題も多い。難民が就労許可がないまま働けば搾取されることもある。政府とかけあって就労許可を出してもらったり、仕事のスキルを身に付けたり、共同体をつくりあげるための方法を考えたり、サポートが必要なのです」
黒岩さんが工場長として着任した当時、ソマリア難民のモチベーションは低く、遅刻は当たり前、就労書の偽造もあった。
「ケニアの工場で難民キャンプの調理に使う七輪を生産していたのですが、仕事で得られた能力が祖国にどんな影響があるのか、ソマリアの再建を支えていけるのか、ひいては地球の環境保全になることなど、本人たちの知識や技術の価値や世界への貢献を伝えていった。そうすると仕事への姿勢が変わっていきました」
工場長の黒岩さんに対し、当初は厳しすぎると反発も対立もあったが、別れのときには黒岩さんを主人公にした劇を見せてくれ、心にぐっときた。
今は国連本部でプロジェクトを統括する立場にいるが、「難民のために何かをしたい」と考える人たちには「まず現場を見る」ことをすすめている。
「難民の支援をしている人に話を聞いたり、サポート団体にコンタクトを取ったり自分から行動することで得るものがある。緊急支援、長期の支援どちらも、世界の難民キャンプには課題が山積しているのです」
アメリカの大学でスピーチのクラスを取り、韓国のハンセン病の村でボランティアした経験を話したとき、「あなたのスピーチは心の奥底からわき出るメッセージを感じることができる」と先生に言われ、英語の苦手意識がなくなった。アクセントを完璧にするより、何を伝えるかが一番大切だと思うようになったからだ
大学留学時代、ボランティアやインターンなど、国連やNGO団体に自らコンタクトを取った。「学生だからすぐに何かできるわけでもないけれど、自分から行動することがすべてのきっかけになります」。ジュネーブに話を聞きにくる学生さんたちには国連が職員を紹介するなどサポートもしている
留学時代、休み中にスウェーデンで難民が集まるカフェで働いた。アフガニスタン人、クルド人も集まった。
「スウェーデン人は語彙も発音もわかりやすい英語を話すので参考になりました」。多国籍の環境に身を置くと、積極的に何かを話さないと聞いてもらえないので、英語力が一気に上がった
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、世界各地の難民の保護と支援を行う国連機関。活動開始は1951年。支援対象者は2014年には世界で4,630万人、難民を国際的に保護し、基本的人権が尊重されるための活動を行う。運営は政府による任意拠出金および寄付金により、2015年現在事務所は126ヵ国に400ヵ所以上、職員は8,600人。
人道危機が複雑になるにつれて、活動範囲はますます拡大している
国際機関で勤務する場合、ニューヨークやジュネーブなど国連等の国際機関の本部が集まる都市で勤務することもあれば、アフリカやアジアの開発途上国の事務所で勤務することもある。後者で勤務することを通常「フィールドの経験」と言う。記事では「本部と現場」ということが言われているが、この「現場」と同じ意味合い。国際機関の本部で何かを統括する立場で働く場合においても、この「フィールド経験」は非常に重要になる。年齢が高くなるにしたがって管理・統括する立場になっていくため、フィールドの経験は比較的若い時に積んでおく必要があると言われている。
また国際機関に最初に入る時にも、政府援助機関や国際NGO等で「フィールドの経験」があると採用に非常に有利にはたらくことがある。